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シンエヴァ/式日 比較    21.06.18

庵野秀明監督作品『式日』は藤谷文子の小説『逃避夢』が原作の映画だが、男(カントク)のモノローグは「当時の僕の本心ですね」と庵野監督は語っている(*1)。
勿論本心と言っても作品にするにあたり脚色や省略はしているだろうし、あくまで当時(2000年)の監督の心情である。
(インタビューで監督がそもそも本心を語っていない可能性もあるけれど、そこから疑うと考察が成り立たないのであえてスルーする。)
以下、虚構と現実について語っている部分の抜粋。

映像、特にアニメーションは、個人や集団の妄想の具現化、情報の操作選別、虚構の構築で綴られている。
存在をフレームで切り取る実写映像すら、現実を伴わない。いや、既に現実が虚構に取り込まれ、価値を失っている。
久しく言われる“現実と虚構の逆転”。既に私には、どうでもいいことだ。
私の意識、私の現実、私の被写体は、彼女に集約されつつある。
おそらくは、妄想に逃げ込みたい彼女。おそらくは、妄想から逃げ出したい私。
この相反する事象を映像として切り取っておきたかった。だが、その行為も映像を通してしか他人とコミュニケーションを取れない自分の、言い訳にすぎない。

今日も私は、彼女を映像に切り取る。現実の存在を、自分の意志で、自分の都合で、自分の当意で切り取る行為は、私を安心させるからだ。
映像は私のこうした現実の過去を、虚構に変える。
誰しもが行う記憶の編集、記憶の改ざん。それらに映像という形を与え、具現化し、存在させることで、私は過去をやり直し、綺麗事で塗り固められた理想の過去へと変えているのだ。
私の現在を、自らを脅かすものが何もあり得ない虚構と妄想の世界に、作り替えているのだ。
彼女と私は同じだ。所詮は方法論の違いにすぎない。

今や、映像をはじめとする日本の数々の表現媒体は、成すことのない人々にとっての暇つぶしとしての娯楽、或いは、傷付くことを恐れた人々にとっての、切なる癒し。
その為の装置とし、機能しているだけにすぎないのではないか。
人々が求めるものは、赤裸々に増幅されたスキャンダル。或いは、美しく脚色された、虚構の中のイリュージョンである。私自身もそうだ。
他人との適切な距離が量れず、妄想を日常として成り立つ、虚構の世界へ逃避しているに過ぎない。
この映画ですら完成すれば、不確定要素のない適度な刺激と、安心した時間をもたらす装置の一つになる。
それ以外の映像を誰が望み、誰が必要とするのか。

 

上記のモノローグは、ゲンドウが語った虚構を現実に変えるアディショナルインパクトとの類似点が多い。これを新劇場版エヴァに当てはめ、世界を作り直そうとループしてしたゲンドウ、世界を修復する(やり直す)為にエヴァに乗ることをシンジ君に提案し、なお、ループに囚われていたカヲル君の役割は『虚構』であった、という考察をしてみる。

『式日』では、妄想(虚構)に逃げ続ける「彼女」の日常を「今日を、昨日に戻し、明日を迎えることのない日々」「リセットとリピートによる変わらない閉塞の日々(*2)」と表現しており、ループに囚われていたカヲル君の台詞「定められた円環の物語の中で、演じることを永遠に繰り返さなければならない」という表現と類似する。『虚構』は変化のない繰り返しである、という解釈ができる。「生きていくためには、新しいことを始める変化も大切だ」「そうして、つらい感情の記憶ばかりをリフレインさせてもいいことは何も生まれない」という、シンジ君に変化を促すようなカヲル君の言動は、変化のないループから抜け出したかったカヲル君の心の表れだったのかもしれない。

また、ゲンドウとカヲル君は「似ている」、カヲル君とシンジ君は「同じ」、シンジ君とゲンドウは「同じ」であると言及されており、ゲンドウとカヲル君は初号機と対(鏡)である13号機に乗っていた。シンエヴァにて初めて、世界での生きづらさ、喪失による耐え難い孤独により「過去にとらわれ立ち尽くしている(*3)」ゲンドウが前面に描かれた。Qにて、世界の変化に取り残され、過去をやり直そうと必死だったシンジ君の鏡の役割もあったのかもしれない。
そして、「この誰のオシッコかわからない再生水と同じ。清めれば済むと思ってる。そんな訳ないっしょ」とやり直しを否定し、エヴァに乗ろうとするシンジ君に銃口を向けるミドリは『現実』の役割になる。「もういいよ、サクラ。明日生きていくことだけを考えよ」という台詞も、実際にはやり直しのできない『現実』を体現した台詞のように感じる。(おそらく、通常のアニメの要領で制作されたマイナス宇宙の描写と対比して、画コンテを作らず、モーションキャプチャー、ミニチュア模型を使って制作された(*4)第三村での描写も『現実』の役割である。「ニアサーも悪いことばかりじゃない」と、シンジ君の過去を許容するようなケンスケの台詞があり、また、マイナス宇宙にて「君はイマジナリーではなく、リアルで立ち直っていたんだったね」というカヲル君の台詞がある。)

『式日』は、映画の中で男(カントク)が映画を撮るという、メタ的な構造の作品になっており、作中「1日目 30日前」「2日目 29日前」というテロップが表示される。これは、誕生日を先送りにし、妄想に逃げ続ける「彼女」が、現実(母親)と向き合う「31日目 当日」までのカウントダウンであり、ED曲後のラストには「33日目以降 未定」のテロップが表示される。あくまで私自身の印象だけれど、“不確定要素のない適度な刺激と、安定した時間をもたらす装置(式日という映画自体)”が、明日はどうなるかわからないこちらの現実と溶け合った、という感覚を持った。
シンエヴァでは、エヴァのない世界でDSSチョーカーを外し大人になったシンジ君が駆け出し、その風景が実写に移り変わっていく描写により、エヴァの呪縛(エヴァという作品自体)から解放され、こちらの現実と溶け合った、という、『式日』のラストと似た感覚を持った(厳密には少し違うのだけれど…まあ、あくまで私の感性なので)。
『式日』では、電車に乗ることは「レールがもう引いてあって、決まったところに連れて行かれる点が、コントロールされてる感じがして、それが映画に似ている(*1)」と比喩されており、シンエヴァではゲンドウ、カヲル君、シンジ君は皆最終的に電車から降りている。

正直、時間や世界を戻すにしても新たな世界の創造にしても、世界の情報の書き換えという意味では同じ事では?と思っていたのだけれど(過去の繰り返しの積み重ねがあったからこそあのラストになったという構図はわかるのだけれど、それでも、社会人になったシンジ君が急に映ったことによって、ミドリや、アスカとケンスケのそれまでのエピソードが結局無かったことになってしまっているように感じた)、青い海を映してそのままエンディングにならなかったのは、テーマの一つとして「虚構と現実」があったからなのかな、と思ったりする…虚構と現実の多層構造というか…。

上記のモノローグだけを抜き出すと万人向け作品(あるいはそれを求める人々、自分自身も含めて)に対して批判的な印象だけれど、そもそも新劇場版エヴァ(序・破)は意図的にわかりやすい表現を取り入れ、最大多数の最大幸福も目指すべきだ、という庵野監督やスタッフの思惑があって制作されている(*5)。
『さようなら全てのエヴァンゲリオン〜庵野秀明の1214日〜』にて「自分の外にあるもので表現をしたい。肥大化したエゴに対するアンチテーゼかもしれない。アニメーションってエゴの塊だから」「ドキュメンタリーってあるようで本当はないから。結局使えるところだけ切り取るわけだし。その時点でドキュメンタリーという名のフィクション」と庵野監督はおっしゃっていたので、上記の様な思考は今でも残っているのかな?とは思うけれど、シンエヴァにそれがどの程度反映されているかはわからない。
けれども、『虚構と現実』というテーマは庵野監督作品で何度か取り上げられている(旧劇場版エヴァ、式日、シン・ゴジラ)ので、比較したり繋げたりして考えると面白いな…。

*1 『庵野秀明実写映画作品集1998-2004』DISC2映像特典「庵野秀明の世界」トークイベント内の発言

*2 映画『式日』パンフレット(原作「逃避夢」収録) P58

*3 『シン・エヴァンゲリオン劇場版』劇場用パンフレット P68

*4『シン・エヴァンゲリオン劇場版』の大ヒット御礼舞台あいさつ内の発言

*5 EVA-EXTRAにて配信されている全記録全集のインタビュー内の発言

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