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シン・エヴァ 感想 21.03.11(04.06 加筆修正)
私の中では、庵エヴァは庵エヴァ、貞エヴァは貞エヴァ、新劇場版は新劇場版、という認識があって、作品として見るなら別物だと思うのだけれど、それでも、庵野監督が生きた25年として見るなら、新劇場版は庵エヴァの続きなんだ、と思う。
最近は脳科学の本を興味深くてよく読んでいるのだけれど、統合失調症や自閉症、離人症の症状を読むと、私なんかが想像もできないくらいとてもしんどい心象なんだろう、と思って、今までこういった症状を抱えた方たちを知らなかった自分に腹が立つことも多い。
それを踏まえた上で、『庵野秀明・スキゾ・エヴァンゲリオン』『庵野秀明・パラノ・エヴァンゲリオン』を読むと、庵野監督はエヴァのテレビシリーズが終わった当時、相当しんどかったんだろうと思うし、あの当時のエヴァはやはりあれしかなかったんだろうと思う。
(私の素人判断だけれど、庵エヴァキャラは皆どこか統合失調気質、離人症気質な部分があるように見える。全ては遺伝子の多様性の結果であり、どこからが病気でどこから病気でないかという線引きは常に曖昧であり、そういった観点は今回はあえてスルーする)
シン・エヴァは、それから時間が経って変化した今だから描けたものがとても多いという感じがする。
正直にいうと、庵エヴァのミサトさんって「自分からシンジ君を引き取ると言ったくせに、後半、シンジ君をほったらかして男と寝てる無責任な女」にしか見えなかった。(ミサトさんが好きな方、ごめんなさい…)
『庵野秀明・スキゾ・エヴァンゲリオン』の「ミサトをやっぱりちゃんと描かなければならなかった。(中略)ところが、肩入れしすぎていく過程で、ミサトはシンジとは何の関係もない女になっていくという。あれはやっぱりね」という鶴巻さんのインタビューがとてもしっくりきた。
ミサトさんはミサトさんでしんどかったのだろうし、いっぱいいっぱいだったのだろう、とは思うから、やっぱり庵エヴァはああなるしかなかった、とは思うのだけれど…。
旧劇場版では「結局、シンジ君の母親にはなれなかったわね」と言っていたミサトさんが、シン・エヴァでは母親である事と、シンジ君だけに責任を背負わせた事に、ひどく責任を感じていた。とても大きな変化だったと思う。
二回目観に行ったとき、ミサトさんとシンジ君が抱き合うシーン、泣きそうになった…。
シン・エヴァを観た今なら「ミサトさんがシンジ君を最後に送り出す時にするべきだったのは大人のキスじゃない…!」と言える。
庵エヴァでの“綾波レイ”という存在は、母親(ユイさん)の肉体的な情報のコピーでもあり、「死んでも代わりはいる」クローン人間でもある、存在の希薄さが印象付けられたキャラクターだった。シンジ君も、結局最後まで綾波の中に母親を見ていたと思う。
破の「綾波は綾波しかいない」という綾波自身に向けられた強い言葉は、庵エヴァのシンジ君は一度も口にしなかった台詞だった。シン・エヴァでの母親の役割は、シンジ君にとっては保護者という役割のミサトさんになっていた。ここにはエディプスコンプレックスからの脱却があったのかな、と思う。
シン・エヴァでのアヤナミ(仮称)は、仕組まれた感情でシンジ君に惹かれても「良いの、良かったと感じるから」と言えていたし、シンジ君も「君は綾波じゃないし…」と母親や綾波と重ねることもなかった。(もしかしたら、S-DATを見たとき、アヤナミ(仮称)が白いプラグスーツになって消えたとき、綾波を思い出したかもしれないけれど、綾波の代わりにするような態度は見せなかった。)
そして、一番大きかったのは、シンジ君やネルフとは無関係な部分でとても楽しそうだったところだと思う。
ここでも、母親の代わりではない、綾波のコピーでもない、アヤナミ(仮称)はアヤナミ(仮称)という存在になったのだと思う。
(ただ、パンフレットで林原さんがおっしゃっていた「すべてのレイは根底でつながっている」というのはあると思う。『天国の記憶』の歌詞が悲しく思えて、昔の魂の記憶や感情に引っ張られてシンジ君やゲンドウに惹かれてしまうのはとても悲しいな、と思っていたのだけれど、でも、つながっているということは、「黒い髪の母親から黒い髪の娘が生まれた」というくらいの、普通で当たり前なことで、別に悲しいことではないのかもかもしれない。)
あとは、父親との対峙。
旧劇場版は、庵野監督の心の反映なのか、セックスと女(母親)のイメージがとても強い。旧劇場版においては、シンジ君はゲンドウ(父親)と顔すら一度も合わせないままだった。
『庵野秀明・パラノ・エヴァンゲリオン』の「父親っていうのは、目に見える障害というか、子供にとってのわかりやすい敵ですよね。だから非常にドラマが作りやすいところがあるんです。(中略)ところが『エヴァ』を見ていると、あれだけ“目に見える壁”として描いているはずの父親(ゲンドウ)が、なんか希薄なんですよ」という竹熊さん(インタビュアー)の言葉がしっくりくる。
私も、エヴァの二次創作をしても、結局ゲンドウはシンジ君にとって「倒すべき父親」だったのか「和解すべき父親」だったのかがわからなくて、シンジ君がゲンドウにほったらかされている描写はできても、その先は描けなかった。
シン・エヴァはゲンドウ補完計画の部分がとても大きかったと思う。
「すまなかったな、シンジ」という台詞は旧劇場版、シン・エヴァ両方で使われた台詞だけれど、印象が全然違った。
One Last Kiss、Beautiful World、ゲンドウの曲だと思って聴くと、「お前どんだけ嫁さん好きやねん…」となる。
アスカやカヲル君の、庵エヴァの補完の部分(カヲル君に関しては設定がよくわかっていない)、やっぱり今だから描けたのかな、描いてくれたのかな、と思う。
正直そっちの補完してくれるとは思っていなかったのでめっちゃびっくりした。
庵エヴァで、シンジ君の抱えていた不安や恐怖、アスカの抱えていた愛憎が無かったことになるわけではないけれど、それでも「好きだったよ」って、そんな単純な言葉で良かったんだ、アスカの魂は救われたんだ、と思ったら泣いてしまった…。
speenaの『ジレンマ』(アスカの心情をモチーフにした曲)の
「あの時あたしが欲しかったものは のぞきこんだ鏡に映る あたしの様なあなたを 捨てる勇気だったのでしょう」
という歌詞、今なら前向きな気持ちで聴ける…。
シン・エヴァはアスカのエピソードがとても良かったからか、家に帰ってから序破Q観返したら破が一番面白く感じた…。
庵エヴァ、貞エヴァ、新劇場版全てで、『自立』というものがテーマの一つとして組み込まれていると思う。
旧劇場版での自立は、皆死んでしまえばいいとまで絶望したシンジ君が、それでももう一度他人の存在を望み、個として生まれ直す、という、とてもシンプルなものだったと思う。
しかしシン・エヴァではそれが少し複雑に、全編に渡って描かれているように感じた。(三回目観たときに初めて気が付いた…おそい。)
まず、第三村での生活。一番「エヴァっぽくない」部分だったと思う。(一回目観たときはずっと二次創作を見ているような気持ちだった。)
周囲の優しさに触れて、失語症になったシンジ君が少しずつ立ち直っていく、という意味での自立が描かれる。
ケンスケの父親の話から、ゲンドウのことを考えたり、(子)加持リョウジと会うことで、ミサトさんや加持さんのことを考えたり、アスカが自分を殴ろうとした理由について考える心の余裕もあったと思う。
そして(パンフレットの緒方さんのインタビューの言葉を借りれば、「この世界でもう一回生きるための一歩」として)、自分からウンダーに戻る決心をする。
次に、ウンダーでのやり取り。「責任」という表現。(落とし前を付ける、という表現もされていた。)
アスカがシンジ君を殴りたかった理由。ミサトさんがずっと背負っていたもの、シンジ君が半分引き受けると言ったもの。
庵野監督がCMで「大人とは、自分で考えて、自分で責任がとれる人」とおっしゃっていたので、そういう意味だと思う。ここでシンジ君は、もう一度エヴァに乗ること、ゲンドウと向き合うことを決心する。
もう一つ、「意志を受け継ぐ」という表現。
破で、死んだ父の意志を受け継いでネルフに入ったミサトさんの話題の際に、加持さんが使っていた言葉。マイナス宇宙にて、ミサトさんの死と思いを受け取るシンジ君を見て、ゲンドウが「大人になったな」と言っている。
ここでは、大人になる、という意味での自立が描かれる。
最後、エヴァパイロットそれぞれのレゾンデートル。
テレビシリーズ25、26話では「エヴァに乗ることで、自分は自分で居られる。だからエヴァに乗るしかない。他には何もない」という“エヴァへの依存”というテーマが取り上げられていた。
『残酷な天使のように』にて「要するに僕はアニメーションというものを通さないと社会と接することができない。(中略)アニメに依存しないと自分の演技をできないってことですから。他の人とも話をすることができない。それは自分の中になにもないってことです。」とおっしゃっていた庵野監督の心の反映なのかもしれない。
そしてテレビシリーズラストでは「そうだ。エヴァのパイロットでない僕もありえるんだ」「僕はここにいてもいいんだ!」というメンタル(虚構)的な自己肯定だけで終わってしまっている。
『庵野秀明・スキゾ・エヴァンゲリオン』の「シンジ君って昔の庵野さんなんですかって聞かれるんですが、違うんですよ。シンジ君は今の僕です(笑)。十四歳の少年を演じるくらい僕はまだ幼いんです。(中略)そこから前に進もうと思ってたんですが、それは自己への退行になってしまった。袋小路ですね」という庵野監督の言葉からすると、あのラストは本当の意味での『自立』ではなかったのだろう。
新劇場版でも、エヴァパイロットは皆それぞれ、エヴァに乗ることでしか、自分の居場所を、他者との関係を確立できなかった。(庵エヴァではメンタル的な意味合いが強調されていたが、新劇場版では庵エヴァとの設定の違いから、メンタルとフィジカル、両方の意味合いになっていた印象。)
破で綾波の言っていた「この中でしか生きられない(エヴァに乗る生き方しかできない)」状況だった。
そんな中、アヤナミ(仮称)が、エヴァやネルフとは無関係な自分の居場所を見つけた。(「ここじゃ生きられない。けど、ここが好き」という表現、すごく好き。)
そして、破で綾波が実現しようとした「エヴァに乗らない幸せ」を、今度こそフィジカル(現実)とするために、シンジ君はエヴァのない世界を構築する決心をする。
ここが大きな自立だったのかな、と思う。
一回目、二回目観たときは「エヴァのない世界の構築=映画なんか見てないで現実を見ろよ」って意味かと思っていたのだけれど(その意味もあるのかもしれないけれど)、アヤナミ(仮称)がエヴァに乗らない自分の居場所を見つけたこと、アスカがエヴァに乗らない自分の居場所に気が付いたこと、エヴァを使って幸せになろうとしていたカヲル君の退場を含めると、「エヴァのない世界の構築=エヴァパイロットの自立」という意味もあるのかな、と思った。ただ、『プロフェッショナル 仕事の流儀「庵野秀明スペシャル」』を観る限り、庵野監督の「そういうふうにしか生きられない」「他にやれることがない」という部分は変わっていないように感じた。それも踏まえると、“エヴァに頼らず、自分だけの力で立ち上がる”という意味合いよりは「アスカはアスカだ。それだけで十分さ」というケンスケの台詞の様な、“もう、エヴァに乗らなくていいんだよ”という『解放』や『救済』の意味合いの方が強いのかな、とも思う。
(一回目観たとき、カヲル君が『渚カヲル』というキャラクターをぶん投げたように見えた。渚という名前の意味について語るシーンがあるので、さすがにメタ解釈しすぎだったな、と後で思ったけれど…。でも、アヤナミ(仮称)の農作業しかり、エヴァという作品内でエヴァと無関係なレゾンデートルを見つけるということは、今までの自分のキャラクターを脱ぎ捨てるという意味もあるのかな、とは思う。)
それと、ラストのマリとシンジ君のシーン。あそこはメタ的要素が強い気がするので、作中の描写として思考するべきなのか切り離すべきなのか判断が難しいのだけれど…。
ただ、個人的に、庵エヴァを観たとき、シンジ君の中に「ヒトとヒトとがわかり合えるかもしれない希望」として残ったカヲル君と綾波って、カヲル君には自分を、綾波には母親を重ねて見てるだけだし結局シンジ君の心の中に本当の『他人』なんて誰もいないじゃないか、しかも唯一いる自分も好きだと感じたことがないんだ、と思ったら、シンジ君の見ている世界が息苦しくてしんどくてどうしようもなくなってしまって、シンジ君がこの息苦しさから抜け出せる唯一の方法って本当の『他人』を好きになることなんじゃないか、と思ったことがあった。(というかそういう漫画も昔描いた)

『庵野秀明・パラノ・エヴァンゲリオン』の「キャラクターを一杯出したのに、全部同じになっちゃってるのが、僕は許せなかったんですよ」という貞本さんの言葉は的を射ているのだと思う。(ただ私は庵エヴァの、収縮していく自己の世界に気持ち悪さを感じながらもめちゃくちゃ惹かれてしまっているので、そこは庵エヴァの魅力なんだと思う。私が庵エヴァと貞エヴァが別物だと思うのもその辺り。)
パンフレットの「庵野さん自身が作るとどうしてもシンジ同様に自分自身になってしまうので、マリはそれとは違うキャラクターにしたくて、外部の人に預けていたんだと思います」という鶴巻さんの言葉からすると、マリと一緒に歩むラストというのは、庵エヴァ世界(自分だけの世界)からの脱却だったのかな、と思ったりもする。(一回目観たときはもやもやしたけど、二回目観たときはスッと心に入ってきた。)
あと本当空白の14年間になにがあったの…リョウちゃん…。
因みに序・破の設定資料集は未読なので、見当違いなことを書いているかもしれない。シン・エヴァを観るまで新劇場版の総合的な評価が出来なかったので買ってなかった…。買います。
色々な考察を読んで「そうか、ここはそういう意味だったのか…!」と一人で泣いているのだけれど、嬉しくてこんなに涙が出るのかと自分で驚いている…。
特にパンフレットには記載されていなかったけれど、おそらくシン・エヴァでの大きなテーマは『希望』だったのだと思う。色々な方の感想や考察を読んだけれど、そこが旧劇場版との一番大きな違いだった、と見る方が多いようだった。
庵野監督がどういう意図だったかはわからないけれど、でも、旧劇場版でのテーマは『絶望の中の小さな希望』だったと感じているので、大きなテーマ自体はそんなに変わっていないのかな、と思っている…(あくまで個人的解釈)。
旧劇場版にて、『希望』としてシンジ君の中に残ったカヲル君の台詞、「ただヒトは、自分自身の意志で動かなければ、何も変わらない」を、シン・エヴァでは大々的にテーマとして前向きに扱った、という印象。
(庵エヴァでは“自分の”意志が、新劇場版では意志の“連なり”が強調されていたように思う。)
新劇場版にて印象的に使われていたワード『意志』『願い』『幸せ』も、テレビシリーズでも、旧劇場版でも、使われたものだった。パンフレットの山寺さんの「ずっと『エヴァ』を通じて思うのは、「生きていくとは」「人の関係は」「孤独とは」「親子とは」など普遍的なことが描かれていて、そこも深くあるじゃないですか。」というインタビューの言葉の通りだと思う。(旧劇場版では最後まで向き合えなかった父子のかたちが、シン・エヴァでは最後の最後で向き合えた父子のかたちが描かれたのだろう。)
最後まで「女」だったが故にゲンドウを撃てなかった旧劇場版のリツコさんが、「女」を捨てたシン・エヴァではゲンドウを撃てた描写など、庵エヴァとの細かな違いをあげればきりがないけれど、根本的なテーマは変わっていないように感じた。
『プロフェッショナル 仕事の流儀「庵野秀明スペシャル」』を今更(4/6)ながら観たのだけれど、シン・エヴァは、庵野監督が、時間が経って変化したから描けたものと、時間が経っても変化しなかったから描けたものの集合なのかな、と思った。「いつも何かが欠けていて、そういうふうにしか生きられないから」こそ、庵野監督は自分の命より作品を作ることを最優先してきたのだろうし、「大人になりたかったんだろうけど、結局大人になり損ねた人」だから、ぎりぎりまでシナリオを修正して、庵野監督なりの『自立』を描いてくれたのだろうと思う。
(個人的には、色々な本を読めば読むほど「何が出来れば大人なの?誰がそんなこと決められるの?」と思う。パンフレットで緒方さんがおっしゃっていた『「大人ってこうあるべきでしょ」という型にはまった考え方がありますよね。(中略)同調意識が強くて「こうあるべきじゃないですか」「社会人ってこうあるべきでしょ」と押し付けがちで、それ以外の人を排除する。』という行為は誰でも、何となく、してしまっている気がする。)
番組内の、「終わらせる義務」という言葉は、シン・エヴァ内の「僕は、僕の落とし前を付けたい」というシンジ君の言葉とリンクしていると思う。
しかし、「自分の作品が色んな人に影響を与え、人生を変えている」ことに関して「それは申し訳ないともいえる。その人にとって良かれのこともあるかもしれないけど、逆の可能性もあるわけじゃないですか。それは何も言えない」ともおっしゃっていた。Qの副題が「you can (not) redo.」であり、シン・エヴァでは、大災害で家族を失ったミドリが、大災害の元凶であるシンジ君に、嫌悪と憎悪を露わにして銃口を向けるシーンが挟まれている。そのことを考えると、エヴァという作品の影響はもう自分の手を離れてしまっていて、全ての責任は背負いきれない、という気持ちを、庵野監督自身はずっと背負っていらしたのかな、と思う。
それでもシンジ君は、自分の行動の落とし前を付ける為に、繰り返し(エヴァの二番煎じ)ではなく、その先へ進むこと(エヴァを終わらせること)を選択した。番組内でも「今回はちゃんと終わると思います。(中略)それは自分が少し大きくなれたからかなと思います。自分の状況と作品がリンクするから。ポジティブな方向にいくので」とおっしゃっていた。
庵エヴァ、シンジ君の嗚咽を聞くのがしんどくてずっと観るのを封印していたのだけれど、シン・エヴァを観た今なら少し前向きな気持ちで観られるかもしれない…。